酒屋にて、紹興酒のボトルと、ロックアイスをレジに持ってゆく。
レジ脇に常時座るのは、大東亜戦争にも行ったという齢九十越えの爺。
「上海ロック?」
あー、まあそうすね。
「気をつけないと、SARSになっちゃうよ」
気をつけますよ。
って全然意味分かんねえ。
このひと関東軍だ、きっと。
(了)
気が付けば、国道沿いのトラック野郎御用達ドライブインがリニューアルオープンしてる。
しかも、花輪も新しく、最近極まりない。
当時、定食目当てで原付で通い詰めたこの場所に、競輪もしくは競馬のゲームマシンがあり、トラックドライバー達は、その機体に小銭を投入して、食事後の休息を過ごしているものと無邪気に信じてたもんだが、ある日すごい勢いで硬貨があふれ出るのを見て、自分の認識の甘さに気付かされた。
「あれって、500円玉じゃない?」
「メダルじゃないんだ・・・」
「まだ出てる」
「金額的にやばくねえ?」
まさか国道沿いのドライブインで、諭吉の顔が拝めるギャンブルマシンがあろうとは。
(了)
繊維質が見えるまで履き続けたタイヤの危険度に怯え、バイクショップに電話してみる。
あの、ホンダのバイク、タイヤを交換したいんですけど、診てもらえます?
「いいよ」
何時まで営業してます?
「八時まで」
今から行って交換してもらえます?
「いいよ」
単車を押して現地へ赴くも、看板のあるショップにはシャッターが降りている。
えー、八時までって言ったじゃーん。
A4用紙に手書きした「←」の記号が見える。
『隣に移転しました』
えー、隣って酒屋じゃーん。
よく見たら、酒屋とシャッターが降りた店舗の隙間に、2秒前までまったく気付かなかったバイクショップが確かにそこにある。
先程電話した者ですけど。
「? どうしたの?」
タイヤ交換して頂きたいんですが。
「メーカー、何?」
ホンダです。
「あー、どれどれ」
これです。
「あー、え? これ? ホンダ? タイヤ? 電話の方?」
・・・あんたにこの子を預けていいのか・・・。
(了)
①電磁波の影響で体内磁石が狂ってしまった哀れなクルッポー。
②主に教会や人気の無い建物の屋内に存在し、銃撃戦の際に豆鉄砲食らったかのように飛び立ったりする。
③必ず白い。
「ジョン・ウーってよく――飛ばすよね」「ヌマケンみたーい」
①投擲に適した形状ではあるが、基本的に投げたりはしない。
②幼少の頃から共に仕事をしてきた旧友の過酷な仕打ちに絶えかねながらも、それがコミュニケーションの手段と認識するツールのひとつ。
タイム誌インタビュアーがジャッキー・チェンが出版した本の内容について質問する、
「なぜ、中国戯劇学院からの友人であり仕事のパートナーのサモ・ハン・キンポーを、弱い者いじめする人のように書いているのか」
に答えて、
「うん、そうだよ。彼はあまのじゃくだよ。いまだにアメリカにいても、『ジャッキー、灰皿を取ってくれ!』って言うんだ。ほかの誰かが取ってくれると、立ち上がって『どうもありがとう』ってお礼を言うんだろうけど、僕にはそうしないんだ。僕よりも他の人によくしているんだ。でも彼のことは好きだよ」
ジャッキー先輩! 説得力ゼロですよ!
“TIME”1998年10月19日号( Vol.152 No.15)
終電を逃すまいと閉まりかけた総武線の扉をこじ開けて飛び乗るも間に合わず、ホーム側に身体を残したまま足をはさまれている状況に、初めは構内の利用客に対して「オイオイ」と照れ隠し半分苦笑いだったが、電車は無情にも発車してしまい、やがて悲痛な顔つきに変化するとともに、死を意識するほど間近に鉄柱が迫っていることに気付いた。
(了)
ねえ、気付いたんだけど、君ん家の近所にあるオブジェってさ、「やんごとなき事情から四肢を切り落とされ猿ぐつわされてのた打ち回っているペプシマン」の像だよね?
違う? あ、そう。
じゃあ何て説明してくれんの?
知らないって何なのさ。
幼少の頃からの付き合いじゃないの、彼とは。
彼って誰って? ペプシマンに決まってるんじゃんか。
困るんだよね、いつまでもそんなこと言ってると彼みたいになるよー。
こ、怖いんですけど。
(了)
マグタイトという鉱物をご存知だろうか。
マグマが冷えて固まった瞬間に2gの誤差が生じるという原理を微妙に読み違えたものだと言われている。
ざわ・・・ざわ・・・
質問は一切受け付けないので、そのつもりで。
(了)
「何年も前のことだけど、シナトラが死んだ時に、彼の娘は家で『隣のサインフェルド』を観てたんだって。で、後で娘は関係者に、『あの時、録画しておけばよかったのよ』って泣いたらしいよ」
男はバーガーショップの二階席から、駅のホームを通過する電車を見ながら電車の乗客に向かって話すように言った。
早口に、極めて感情を込めないまま。
「ていうか、何? さいんふぇると?」
女の来店時から数時間は放置されたアイスコーヒーは、溶けた氷によって何倍にも薄められ、美しくもない分離層ができつつある。
「観たことはないんだけど、前にケーブルでやってた海外のドラマ。コメディー」
「ケーブル?」
「スカパーとかディレクTVとかあるじゃん。WOWOWもそうか。でも、考えてみたらWOWOWに加入してる人って周りにほとんどいないね。100人中3人くらいなんじゃないかな」
「そんなことないよ、実家は入ってたよ。もうやめちゃったみたいだけど」
「ほら」
「何が?」
「俺の周りでは君が初めてだ」
「んー、そうなんだ。で、さっきの話に続きはあるの?」
「ナンシーは予約録画しないんだなって」
「ナンシー?」
「シナトラの娘だよ」
時刻は午後五時になろうとしていた。
反射的に席を立った男は、店員の「そのままで結構です」との発言が聴こえなかったのか、備え付けのダストボックスにトレイごと放り込み、階下へ降りる。
女は男に続く。
「じゃあ仕事に戻るね」
女は小走りに繁華街へと消えて行った。
女の走り去る後姿がひどく不恰好に思えて許せない気分になる。
男は、脇に抱えたキックボードを歩道に下ろしながらと同時に器用に左足を乗せ、黄昏迫る街を右足でアスファルトを蹴りだした。
(了)
「長谷川慎次」という偽名で一日を過ごしてみる。
当然呼ばれてる気がしないから、銀行においては番号札で呼ばれるまではいいとして、偽造通帳の名を何度か連呼されたまま気付かずに、次の客へと移行するというおよそ建設的ではない展開となる。
病院では、病の巣窟たる待合室に終日座ることになる。
じゃあ、キャバクラは?
同行する連れからは常に「いやいやいや、先生」と呼ばれる為に何の意味も無い。
挙句、「何の先生なんですかあ?」と説明する気も失せる質問を投げられ、面倒なのでひとこと「産婦人科」と呟く。
まんざらでもないキャバ嬢。
何だ、この展開でいいじゃんか。
本日限りで名を偽るのを止め、ニセ産婦人科医として生きていきます。
(了)
深夜の公園で焚き火をする人々を遠巻きながらに見守る町子。
本日、区議会へと赴き、『屋外で暮らす人を見守る会』発足に向けて、活動内容を記載した書類を申請したばかりだ。
がんばって!
何が間違ってるかさえ気付いていないようだ。
(了)
「うちの事務所の支店長知ってます?」
ああ、『土下座の鈴木』くんね。
「・・・! そう、鈴木っていっぱいいるから、それぞれ『鬱病』とか『痔持ち』とか厭な呼ばれ方するんですよ」
君はどれかね?
「は?」
君はどれかと訊いているんだ。
「いや、僕は鈴木じゃありませんから」
またそんな詭弁を。
「何を言うんですか!」
鈴木だろうが、田中だろうが、佐藤だろうがそんなことは関係無いんだ!
「何でキレてんすか?」
『脱糞』とか『○○○イ』とか呼ばれる身にもなってみり!
「みり?」
ああっ、今ひどいこと言った!
「いや、あなたが」
訴えてやり!
「やり?」
ああっ、また!
鈴木姓の受難は続く。
(了)
きらびやかな内装に圧倒されている町子。
新庄似の男が出迎える。
「ホストクラブ、『エンペラーパレス』へようこそ。当店ナンバー1の西村ナルヒトです」
差し出された名刺を受け取る町子。
裏を返すと、携帯のメールアドレスが印字されている。
onakaniyasasii.calpis.umai@xxxxxx.ne.jp
まわしもの?
(了)
「憎き山内侍」
海岸沿い波打ち際に倒れ、若芽まみれのひとりの男。
朝のビーチコーミングの果てに厭なものを発見した後悔でいっぱいの青年は、熊手片手に男を見下ろす。
「実は俺、本名、長宗我部っていうんだ」
姉小路改め長宗我部、最期の言葉だった。
(了)
「疾風のように」
玉砂利の中、うつ伏せに倒れるひとりの男。
傍らで呆然と佇むしかないひとりの少年、穢れない瞳は男を見つめている。
「ぼうず、知ってるか? ザブングルの操縦桿はハンドルなんだ」
姉小路の最期の言葉だった。
(了)
「また、余計なことを・・・」
見た目は辞書に酷似しているけど、まったく別物だわ。
「・・・もういい! それを返しなさい」
はい。
「君がそういうことをしている限り、この会話は繰り返されるぞ!」
脅しには屈しないわ。
「これは脅しじゃないんだよ」
何するの!? そんな危険なもの、しまって!
「少年は、脆く、危うい。知ってるはずだ」
耳を突き刺す炸裂音が響く。
静寂。
町子は少しだけ後悔した。
脆く危ういのは少年だけに限ったものではなかったと。
(了)
「・・・ま、町子」
まだ生きてた。 なあに、たけひこさん・・・。
「少年は・・・」
少年は、何?
「・・・う」
たけひこさーん。
「ご臨終です」
あなた誰?
「少年です」
小林?
「いやいや。ただの少年ですよ」
自分で自分のこと、少年なんて言う少年なんていやしないわ。それに妙に老けてるし。
「ばれたぞ。逃げろ」
誰に言ってんの?
「どうやら収拾がつかなくなっているようだね、お嬢さん」
またへんなのがきた。
「ここに国語辞典がある。これを使いなさい、さあ」
「少年」の項を引けばいいのね。
「そのとおり」
でも、これは国語辞典なんかじゃない!
(續く)
前回の続きから。
「ごめん、仕事が忙しくて」
そんなのただの言い訳よ。
「・・・結婚しよう」
・・・うれしい。
「そして、こんな汚れきった世界とはお別れしよう」
そうね。
「・・・うっ」
どうしたの?
「し、心臓が・・・」
しっかりして、わたしたち結婚するのよ!
「ぼくは・・・もうダメだ。ごめんよ、きみは今日から未亡人だ・・・。ガク・・・」
今この人、ガクって言った!
(續く)
前回の続きから。
こうしよう。
「幼年期には長い舌を持つが、成長とともに適度な長さになり、主に威嚇に使用する。また、敵対する対象物と遭遇した際には、体中の毛穴という毛穴から、紫色の臭い汁を出す」
なんだそれは。
「南太平洋の深海に棲息し、鰻の初期段階と推測されるレプリファルケスを主食とするが、その脆弱な生態により、1980年代から、絶滅が懸念されている」
え? なに? 魚?
「気まぐれで、嘘つき。時間を守らない。自分のことを名前で言う。海外ブランド好き。すぐ泣く」
ただのイヤな女じゃん。
「宇多田ヒカル」
意味分かんないし。
「携帯電話と、子機の区別がつかない」
じじばばの類か。
「夜中、油をなめる」
妖怪? ただの油好き?
(續く)
少年はいつでも死に近しい。死と隣り合わせの思春期。
少年の定義を仮に、「自己形成途上中の不完全有機体」としよう。
しかし、これは適当ではない。
なぜなら「醸造中の醤油」もあてはまってしまうからだ。
ではこう追加しよう。
「稀に自らの命を絶つ行為を含む」
どうだろう。
なんだか少年らしくなってきた。
更に追加する。
「稚拙、かつ猥褻な表現を好む。ただし、媒体は問わない」
しまった、これでは「下ネタで狂喜する中学二年生」を限定してしまう。
こう続けよう。
「視覚的に夏を感じさせる雰囲気を醸し出す」
この場合、冬でも軽装で袖や丈が短いというスタイルを意識するが、イメージ的に「無駄に体温の高い小学生」の定義付けになったことが悔やまれる。
それでは。
「欲望の果てにカタルシスのない半永久機関を内包し、それから生ずる絶対的自己矛盾に苦悩する。この一連の動作は果てしなく繰り返される」
真実ではあるが、こうなるともう存在そのものが、危ういものになる。
しかも、漠然としすぎていて、理解しにくい。
雨戸ががたがたするな。
うるさいから、本日はここまで。
(續く)
今年で23歳になる秋田出身の女は、都内のコンビニエンスストアでの些細な出来心から、春の選抜で山形代表として甲子園出場を果たした経験のある元高校球児店員からアンダースロー気味にカラーボールを投げつけられ、ミス東北地区予選を惜しくも敗退したものの敗者復活戦により準々ミスまで登りつめた自慢の肌をオレンジに染めた。
というよりも、窃盗犯の烙印を捺された。
オレンジ色に染まったあきたこまちが重くて走れない。
こんなはずではなかった。
米が欲しかったわけではない。
ただひとこと言って欲しかった。
いらっしゃいませ、と。
(了)
「ソイビーンズの中には全てが詰まっている」
ニカラグアで幾多の戦地を潜り抜けてきたという祖父が残した言葉のひとつだ。
象はゾウでしかないが、麒麟はキリンだけを指すとは限らない。
鼻の伸縮と首の長さを同一視することは無いように、存在の確かさと不確かさにおいては歴然としていると言える。
イソフラボンとタンパク質以外に何があると言うのだろう。
幼い頃に観た映画の台詞にも似た響きを持ってはいるが、祖父亡き後25年も経過した今でも理解していない。
意味は無いのかもしれない。
確かめる術を失い、ひとりニカラグアを目指す。
いい夢旅気分。
(了)
九面体とは? 漠然と問われても成す術がないように、かの構造物の展開を知らない。
6が6であるが所以のルーツを探れとか、ナイルそのものが川であることの注釈を求められてもただただ困惑するだけだ。
島田結いとは誰にでも出来るものではないのと同様に。
名も無き小島を離れ、頼りない小船に揺られている。
太陽の沈む方角から飛来した小鳥の運んできた小指ほどの小枝は、大地の存在を示すものと信じ、大海原を西へと針路を向ける。
絶海の孤島での生活を脱し、危険な船旅を決意したのは、人は大地に立ってこそ生きていると感じたことに他ならない。
雨粒の数だけ裏切られ、星の数ほど苦い思いをしてきた。
例え行き着いた先が砂漠、湿原でも構わないと上陸を切望するのは、まだ何かを信じるだけの力があるということだろうか。
航路は果てしなく、海上の闇は死を支配する。
やがて小鳥は羽根を毟られて胃に収まり、堅くて短すぎる小枝は爪楊枝の替わりとなる。
かつて小鳥だったものは姿かたちも無い。
そもそも飛来したのは鳥だったろうか。
鳥に似せた何かだったかもしれない。
西へ向かう行為を誘発する罠かもしれない。
徒労に終わるとしたら、次に何を目指せばよいだろう。
三日前から神の声が聴こえ始めた。
「志村ー、後ろ後ろー」
無駄だけが真実と知る。
(了)
車椅子にもたれかかった老人の年月が刻まれた目蓋から流れ落ちる幾筋もの光る涙。
ヨーコ・ゼッフィレリ(旧姓山本陽子)は、己の非道さに気付いたか、立っていた位置からくず折れるように床に片手をつき、ごめんねごめんねと嗚咽するのだった。
(了)
パスタの種類を始め、イタリア語にまつわる全てを日に日に忘れゆく。
「ヨーコさん、わしのペペロンチーニはまだかのう?」
「お義父さん、さっき食べたでしょ。しかも冷えたカルボナーラに、見たこともない変な紫色の液体かけた後ぐっちゃぐちゃに混ぜて」
「そうかそうか、あれはどうした、えー、孫のロベルトはまだ学校から戻らんか?」
「お義父さん、ロベルトはもう勤め人ですよ、十年も前からね。更に言うとロベルトは私の大切なアントニオを自殺未遂にまで追い詰めた最悪な同級生で、お義父さんの孫はアントニオですよ」
「そうか。ミケランジェロ! ミケランジェロは何処じゃ! さっきまでわしの膝におったのに」
「お義父さん、ミケランジェロは三年前に死にました。あと、ミケランジェロは生まれた時から子牛ほどもある偶蹄類の一種なので、始めっから膝には乗りませんよー」
「うむ、そろそろピッツァが焼ける頃じゃ。ピッツァは石焼きに限るの。ああヨーコさん、アンチョビは乗せんでくれよ、わしは犬の肉だけはダメなんじゃ」
「お義父さん、うちに焼き釜なんてありませんよ。ついでに言うとアンチョビは鰯ですよー、いーわーしー」
「ヨーコさん、ムッソ・・・」
「・・・うるせえ、このボケじじい! さっきから聞いてりゃ何だ! 何がムッソリーニだあ? この野郎! いい加減にしろ! まいんちまいんちおんなじ戯言ばっかり繰り返しやがって! この腐れ長靴野郎! ナチめ!」
「な、ナチは、ちが・・・」
「黙れファシスト! お前もどうせナチと一緒にさんざん悪いことしてきたんだろう、ああ? ナチの敬礼やってみろ、この豚野郎!」
「わしゃー、わしゃー」
「何だそれは! 窓拭きか! しっかりやれよー、おらー」
「・・・ヨーコしゃん」
「お、何だ。三国同盟か、お前とナチとあたいで枢軸国か? 手を離せ、キ○ガイ! 上等だ、このくそじじい。ナチ連れて来いよ、今すぐ。三秒でな。はい、さん、にー、いちー。ブー!!」
「カーン」
「はあ?」
「オリヴァー・カーンがおる」
「いねえよ、そんなやつ」
「見えるんじゃ、わしには。オリヴァー!」
(續く)
Sの「曲がらない」という言葉の意味を理解しないまま、午前四時、我々は店を出た。
Sはヨーロッパ女に別れを告げているようだ。
女は私を一瞥し、残念そうに我々に背を向ける。
「いいのか?」
私は木製の扉を閉めて歩き出す。
「背骨の曲がらない男に何ができる」
Sは依然として私の方を見ようともせずに呟く。
新宿通りでタクシーを拾うというSと別れ、私は言葉の意味を考えた。
フランス語特有の慣用句だろうか。だとしたら面白い。
英語すら満足に話せない自分には、恐ろしく深い神の領域にも等しい。
酔いに任せて職安通りをひたすら歩き、明治通りで空車を拾う。恵比寿まで。
工事現場で連なっている通りを走る車。加速する街の光は美しくない。
背骨の曲がらない男はタクシーに乗れるのだろうか。
私は背骨の曲がらない男を想像する。
慢性的に直立不動。
ベッドに横たわる時は常にダイブから。
冠婚葬祭には全く不向きに違いない。
タクシーは駒沢通りを右折する。
ラジオから聞こえる交通情報は、駒沢通りの事故渋滞を伝えている。
恵比寿駅前にはまだ、いやもう人がいる。
彼らの中にも背骨が曲がらない男はいるだろうか。
Sのフランス語は驚くほど流暢に聞こえる。
背負う要素に起因して発せられる言語には澱みが無い。嘘が無いのだ。
空が白んでくる。
ブリジット・バルドーは最高のビッチだというフレーズを思い出す。
"b"が四つ並んでいる。腰骨に見えなくもない。
人は背骨に支配されている。背骨に抱かれ生きている。
曲がっていないが故に負う原罪は、フランス女から口説かれても応じられないことに換言される。
Sには負うものは何も無い。
「警告 死亡、または重大な障害を引き起こすかもしれない、潜在的な危険があります」
犠牲には程遠い欠落感。失うものは何も無い。
あの夏の日以来、Sには会っていない。
不意に思い出したSの残した言葉をフランス語で囁く。
フランス女もいないのに。
(了)
「聴いてるか? 山内が家業を継ぐそうだ」
「いや。奴の家は呉服屋だったな」
「若旦那だ」
「呼ばれたいね」
山内には双子の妹がいる。
整った顔立ちをしていて世間的には美人と評される子だったが、一卵性である為、兄を知る我々としては「山内と同じ顔をした女」という不当な評価でしかなかった。
今はアラモにいるという。テキサス州だ。何故そんなところに。
「お前はどうするんだ?」
「どうもしないさ」
私は用意していない答えに窮したが、Sは沈黙を回答とし、話題を変えた。
マルセイユのマクドナルドにはケチャップは置いてないこと、チリのサッカーリーグプレイヤーが高山病に罹らない理由、戦時中の大蔵省官僚が考案した都市改造計画の欠陥、出来損ないのクリーチャーのごとき深海魚のグロテスクさを表現する国際単位等・・・。
締めの意味で口にしたビールが、次なる酒を誘発する。
Sと酒を飲み交わすのは初めてだと気付くのに数時間を要した。
その間、Sは隣に座ったヨーロッパ系の女に話し掛けられ、女の現地語で返している。
背もプライドも高そうなその女は、不自然な座り方をしている東洋人に興味があるようだ。
Sは座っているように見えるが、背中は反り返るほど直線的に伸びている。
止まり木で猫背にもカウンターに向かう私に対し、Sの背筋はほぼ直角だ。
上半身は安定していて、顎は鋭角に引いている。
「お前、姿勢いいな。軍人みたいだ」
「曲がらないんだ」
Sは正面を向いたまま、読み取れない表情のままグラスを口へと運んだ。
(續く)
十年前の夏の日、私はひとりで店にいた。
新宿にある薄暗く湿度の高いバーカウンターの前に座っている。
周囲から聞こえてくるのは、英語圏の人々の英語、英語圏ではない人々の訛りの強い英語と、テレビから流れるサッカー中継の歓声だった。
私よりもいくつか若く見えるバーテンダーは、注文を受け付けた振りをするが、脳内伝票にメモし損ねる、もしくは見当違いの品を運び、やや不穏な空気を漂わせ始めている。
ノイズだらけでまともに表示されないブラウン管には、白人が多数を占めるサッカークラブチームのユニフォームが二色ばかり見え、店内にいる客のほとんどが眺めていたが、試合の経過には興味が無いらしく、画面上に映る選手の国籍を話題にしてもさっぱり噛み合わない。
周囲にいる日本以外の国籍を持つ人々は、煙草の一本も吸わずに酒を飲んでいる。
赤い顔に縮れた頭髪を載せビールしか飲まないアイリッシュの男。
ミリ単位で仕立てを指示したスーツを着込むゲイのアフロアメリカン。
母親ほど離れた中年女性と罵り合ってるラテン系の男。
自国語が通用しない海外で生活するのはどんな気分だろう。
私はブリュッセルで暮らすひとりの娼婦を思い浮かべる。
女は穴だらけの腕や脚を隠そうともせず、娘の養育費を身体ひとつで稼ごうとしている。
生活保護は受けていない。いや、受けられないのだ。
女の技巧は極めて稚拙で、仕事に誇りが持てないばかりでなく、労働自体を嫌う為に固定客も付かず、ボスから搾取され続ける日々を過ごしている。
勤続年数と共に発展性と向上心を失い、肉塊としての扱いを受け続ける。
娘にはもう数年も会っていない。
私が三杯目のブナハーブンを頼むと、バーテンダーはオレンジのラベルの貼られた緑色のボトルを指差し、空であることを告げている。それじゃない、と首を振る。
支払を済ませて帰ろうと立ち上がると、ひとりの男が視界に入る。
日本人と思われる男は、私のふたつ向こうに不自然な体勢で座ると、ハイネケンという口の動きをする。
難聴のはずのバーテンダーは小さく頷くとビアサーバーからジョッキへと注文どおりの品を注いだ。
「もう帰るのか?」
ハイネケンの男は私に顔が見えるようにとスツールを回転させながら、器用にも泡が溢れそうなジョッキを受け取る。
「ああ、明日早いんだ」
「そうか。久し振りに戻っても座り直す気は無いか」
そうだな、と私は男の隣には座らず、立ち上がった椅子に座り直し、男と同じ品を頼んだ。
バーテンダーは「え?」と聞き返すが、男の手振りで同じジョッキが運ばれてきた。
男は、たった今海外から帰ったというSだった。
(續く)
勿論フランス語など読めもしないのだが、ある一文だけが頭から離れない。
たった一文のフランス語だけがSと私を繋ぐ接点だ。
在学中のSは仏文学科に在籍していて、当時の同期生と比較すると究めて勤勉だった。病弱な男ではあったが、講義を欠席することは無かった。記憶の限りでは。
あれから十年の歳月が過ぎた現在、大手家電メーカーに勤務する私は、折に触れSを思い出す。
開発中である新製品の取扱説明書を開くと、目次に次いで「安全にお使いいただくために」と、日本語、英語、中国語、スペイン語に続いてフランス語で記載されている。
「警告 死亡、または重大な障害を引き起こすかもしれない、潜在的な危険があります」
大仰なまでに物騒なフレーズは数ヶ国語に訳され、大仰なイラストと共に使用者への注意を促すと同時に脅迫にも似た警告を与えている。
製品開発とは一線を引いた営業部に籍を置く身ではあるが、失笑は隠せない。立場上、好ましくないが。
数年前、岡山在住の歩行器無しでは移動できないほどに腰椎が湾曲した八十代の老人が、自社製品を梱包していたポリプロピレン製の緩衝材を杖替わりにしようと立ち上がり、バリアフリー設計の自宅で滑って転倒、数メートル分ダイブした結果、犬小屋に頭部を強打、脳挫傷を起こし意識不明の重態に陥るという不幸な事故があった。
不謹慎を承知の上で警告内容が、いや、フランス語が今でも心に残るのは、かつてSが発した一言に起因する。
当時、進路という概念が人生において重要な意味を持たず、数年を無為に過ごすことにさほど抵抗を示さないという立場から、流動的に上京を決意させた。
人の話を聴かないことを美徳とし、狼藉の数だけ人格は深みを増すと信じていた頃のことだ。
(續く)